4.和田倉門付近

明治5年の大火

1872年(明治5年)2月、和田倉門内兵部省添屋敷(旧会津藩邸中屋敷)から出火。西北の風に煽られて火は広がり、馬場先濠を越え、丸の内、銀座、築地一帯の約95ヘクタールを焼く大火となった。これにより、大名小路は事実上壊滅。そこで、この地域は当時の東京の表玄関ともいえる新橋に近いこともあり、政府は西洋流の不燃都市構築を目指すことになる。また、同年には丸の内地区に初めて町名がつけられ、北から道三町、永楽町一丁目、永楽町二丁目、八重洲町一丁目、二丁目、有楽町一丁目、有楽町二丁目とされた。この名が廃され丸の内一丁目、丸の内二丁目、丸の三丁目と変わったのは1929年(昭和4年)のこと。